8日目(現地7日目)は、アカタルヤを発ち、再びタウロス山脈を越え、世界遺産クサントス遺跡、リトゥーン遺跡を見学し、パムッカレに行きました。
この日についての記事はさらっと遺跡を紹介することにします。
バスは、アンタルヤから再びタウロス山脈に入りエルマルの盆地を通り、クサントスに行きました。途中に立ち寄ったレストランはドライブインではなく、普通の村の中のレストランで出された昼食も家庭料理だということでした。
南トルコはアンタルヤのように1年を通して暖かいものと思っていましたが、防雪柵が張り巡らされていました。
また、山中てもないのに石切り場がありました。大理石のようです。
ヤギでしょうか羊でしょうか、草をはんでいました。
盆地には湖がありました。この湖も水深が浅いように見えます。正断層でできた湖でしょう。
BC5世紀、アンタルヤの西に地中海に突き出した半島?のような地域があります。リキアと呼ばれた地域だそうです。
「旅のしおり」のメモ欄に、リキア、BC7、コイン、白金と記しています。ガイドさんの説明によるとリキアは世界で初めて通貨を用いた文明だそうです。上記のメモの言葉で検索すると、コインの写真が出てきます。しかし、この頃は白金より鉄のほうが高価だったのだと思います。白金の使い道は装飾品でしょうが、鉄は武器にも農具にもなりますね。
BC5世紀の歴史家ヘロドトスが記した文書によるとペルシァの軍勢がリキアに侵入し幾つもの町を攻略、クサントス市民は降伏を潔しとせず子女を集めて火をつけて焼き、男は城壁を出て戦い一人残さず死んだとガイドさんが話ました。
ガイドさんの話に続きがあります。その時、旅に出ていた男が後に戻りリキアを復活させたということです。
歴史家ヘロドトスが見てきたようなウソを書いたのか、実際に見て検証したのかはわかりません。
入ってすぐに石碑がありました。BC400年のリキア王子の戦勝記念碑だそうです。
独特の文字でリキア文字だそうです。アレクサンドロス側についてからでしょうか。
クサントス遺跡の珍しさは2基の石柱墓だそうです。
墓の上にレリーフが彫られています。(これはレプリカ、本物は英国?)
もう1基の上部。これもレプリカだったかな?
石柱は石灰岩でできているため、浸食が激しいですね。レリーフも同様でしょう。
ローマ時代の野外劇場。
駐車場から見た全景。
クサントスからほど近いレトゥーン遺跡 (4kmほどだそうです。)、レトゥーンの名はゼウスとの間にアポロとアルテミスを生んだ女神レトに由来している。
そのレトの神殿、石積みが残っている中に三本の柱が立っていました。
神殿の全景です。
神殿の柱も折れたまま転がっていました。
レトゥーンは、紀元前6世紀に始まり、紀元前4世紀には古代ギリシャに征服されたそうです。古代ローマ時代まで都市は栄えたようですが、「レトゥーン遺跡」の石はきりすと教会の建設に用いられたそうです。
ローマ時代の円形劇場です。
「円形劇場」の入口です。
「レトゥーン遺跡」で発掘された遺物は、リキア語や古代ギリシャ語で書かれたものが多く発見されていますが、発掘品のほとんどが大英博物館にあるそうです。これらはリキヤ文明の解明に役立っているということですが釈然としない気もします。
以下はリキア時代です。
これは何だったか思い出せません。
レリーフというか彫刻というか、
床に美しいモザイク画がありました。
鉄の鎹だそうです。ここだけ腐食せずに残っていました。
クサントス遺跡、リトゥーン遺跡を見学した後、パムッカレに向かいました。
パムッカレ石灰棚とヒエラポリス遺跡連額は、翌9日目(現地8日目)ですが、その日についてはエフェソス遺跡を中心の記事とするため、パムッカレ石灰棚の写真をここに載せます。
パムッカレ石灰棚は正断層の破砕帯に石灰質を多く含んだ温泉が湧き上がってできたたものですね。
そういや、NHKテレビの「ぷらタモリ」で松山の道後温泉は断層破砕帯によるものと放送していましたね。
石灰棚を流れる温泉水はコントロールされ、毎日の排水先を変えているとのことです。
参考:
地下に温泉が賦存する状況には層状泉か裂罅状ないし脈状泉の大きく二通りあると考えられている。裂罅状ないし脈状泉に大きく関わるのが活断層である。活断層には断層破砕帯が付随しており、透水率の高い領域に温泉を賦存する、あるいは温泉の湧出する通り道になっている。
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